日本の宝石の価値観 〜宝石道〜 
 

「一隅を照らす是則ち国宝なり」

道心ある人を国宝となす

道心とは、全体がよくなるように、それぞれが自分に与えられた

責任をまっとうするということ

延暦寺


宝石の歴史  〜西洋と日本の歴史と宝石〜


古代西洋人は狩猟民族。

西洋人は常に自然の動物との戦いであった。

狩猟民族は一日一日が勝負で死の不安が絶えずいつも儚い命への緊迫感を持っていた。

そんな狩猟民族は自分の永遠の生命を信じ、記憶として宝石に刻んでいくという習慣が

身に付いたのは自然なことだといえよう。

そして幾度と耐えない戦争が繰り返され、いつ自分の国が滅び移動しなければならないか

不安を持ち続けていた。つまり国(政府)やお金に信用が無かったのである。

宝石はまさに流動性のある物であり、彼らにとっては他のものを始末してでも

宝石を持たなければならなかった。

代表的な民族がユダヤ人だ。

ユダヤ人は非常に過酷な歴史をもち旧約時代から追われていた。

常に一定の箇所に安定しないユダヤ人にとって宗教は場所がどこであれ

常に神と共であるという思想を持ち、どこにいってもユダヤの宗教や思想を忘れず皆もっている。

そんな流動的な状況を強いられたユダヤ人にとって流動性のある宝石は、まさに宝の石であった。

 それに引きかえ、日本人は農耕民族。

国や土地やお金に信用を持ち、土地とつながりが深い。

日本の宗教は土地に付いていて動かない氏神精神がある。

どこの町にも神社や寺が必ずある(神仏融合)

日本人は「大企業にいれば大丈夫」といった仕事ひとつとっても定着性や安定性を求める。

 このように西洋と日本との根本的な生活習慣から文化、宗教思想に発展していく中で

宝石に対する考え方も全く異なったものであるといえる。

日本人は永遠に残るものを求めないできた。基本的に建築も木造建築が中心である。

日本人は木を好む。木は変化しやすいからそれを変化させずに保つところに価値を持つ。

器などを見ても壊れやすいものをいかに長く保たせるかという儚く壊れやすい物に

美的感覚を持っている。物より感覚的なものを評価している

代表的な行事に「お花見」がある。

生命が最も短く最も華やかな桜。

その桜に秋の実りを願い願掛けを半年がかりでするのである。

命の短い桜に祈るという儚さがいかにも日本人らしい。

一番せつなくなるものに長い祈りをかけるのである。

 そして宝石の人間への入り方が西洋と日本で全く異なっていた。

西洋では宝石は王侯貴族や位の高い僧から始まっている。

王冠などを思い出してもらえればわかるが沢山の宝石を贅沢につかって創られている。

そもそも王冠やティアラとはどういう由来から来たのか・・

 古代バビロニアの頃、星の煌きと神を照らし合わせ占星術を生み出した。

神々のパワーは色彩に象徴され惑星を表す色として扱われた。

そんな星に神を宿らせ、その星達を宝石に例えて人間が持つようになりました。

つまり宝石とは神の力を我が身に宿らせるということが目的だったわけです。

そして王冠やティアラができ代々受け継がれていく最も重要なものとし

国の宝へとなっていったわけです。

だから誰もが宝石を持てるということでなかった。

最も神に近い存在として王侯貴族や位の高い僧しか持つことが出来なかった。

高僧の胸当てに12の宝石がはめ込まれ星座石の元祖となり現在の誕生石へと由来されてきました。

一般大衆が持つことが出来るようになったのはそれから永い歴史を経たのちの事でした。

 そんな西洋の宝石文化に比べ日本の宝石文化はというと、

なんと世界で最も宝石文化の無い国でした。

古代の埴輪などを見れば首飾り、耳飾りと沢山のアクセサリーをつけていた様子が伺えます。

日本では翡翠が採取できましたので勾玉なども発掘され恐らく護符が

大きな目的であっただろうと思われています。

しかしそこから装飾品の歴史は無くなります。

中には簪、帯留めなどはありましたが、基本的にジュエリーを着けるというのはありません。

世界から考えて本当に稀な国なのです。

色々な考え方がありますが、着物というのは装飾品をわざわざつけなくても

非常に色とりどりで装飾品の必要性が無かったのではということや、

派手な事は嫌うという「わび・さび」の日本人精神に基づくと相反していたのか、

又日本で取れる宝石は翡翠や水晶くらいだったのであまり親しみがわかなかったのか・・と

色々な説が尽きませんが、とにかくジュエリー空白の歴史を経て日本に入ってきたのは

明治時代に入ってからでした。

 その時の日本への宝石の入り方というのは抜け荷買いとかラシャメン、

不法な商人、水商売という暗い方面から入ってきました。

とても西洋の歴史には適うはずがありません。

西洋人がジュエリーを思う気持ちよりも日本人は低くジュエリーを見てしまうのもわかる気がします。

西洋では権力の象徴であったものが日本では女性の喜ぶものとしか見られなかった。

日本には宝石理論がない。

西洋では長い歴史の中で宝石の価値を何代もかかって育ててきた経過がある。

西洋では宝石に限らず家や家具でも何代もわたって富を築きあげてきた。

富とはそうしたものだという感覚がある。

   


宝石と美意識


 1、芸術と宝石

 無から有を生み出すのが芸術家。

白い紙(材料)に価値はないが、その中に表現されていくことにより芸術価値が生まれる・

宝石(材料)は元々美しいもので宝石そのものに価値がある。

その価値あるものをいかに上手く加工するかというところに芸術が入ってくる。

 アリストテレス「芸術は自然の模倣だ」といった。

自然は美しい。真っ赤な夕焼け、すがすがしい空、色とりどりの花全てが思わず息を呑む程美しい。

動物、人間どれもこれも自然には風情があり美しい景色として人間に写るのである。

この美しい自然にいかに近づこうとするか、それを懸命に表現していくことが芸術である。

自然=人工的作為の全くないもので美しいもの。

芸術=自然の美に近づいていこうとして人間が努力するところに生まれるもの。

宝石は論理的には自然の産物。

鳥の鳴き声は美しい。しかし芸術にはならない。

そう考えると宝石の美しさは自然の出しているものであって芸術と

結びつけようとするならば宝石のカット技術、貴金属の加工技術が重要ということになってくる。

アベールドゥボア:宝石デザイナー

ある日、一人の宝石商が大変素晴らしい宝石があったのでアベールドゥボアに

デザインしてもらおうと持っていって見せた。

すると彼の返事は「こんな素晴らしい石はデザインする必要がない。」と返答されたということである。

つまりその宝石だけで十分美しいものであればデザインなんて無意味ではないか、

となると言い方が良くないかもしれないが美しさに欠ける宝石を自然に近づけ

美しいものにしていくのがジュエリーデザインということなのか・・マイナスをプラスに

変えていくという発想なのか・・?

 またジュエリーと芸術について、私も尊敬させて頂いている

アルビオンアート株式会社の有川社長の話である。

「ジュエリーはかつて芸術工芸の本流であった」

かつてレオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家作品と堂々と並んでいたのがジュエリー工芸品であった。

ジュエリーは今では簡単にお金さえあれば手に入るものとして軽くみられがちであるが

アンティークジュエリーを見たり世界の美術展に行けばその素晴らしさは

人の気持ちを素晴らしく魅了するものである。

 そういえば話は少しそれるが、友人のグラフィックデザイナーと話をした時のことである。

デザインとアート。デザイナーとアーティストは違う。

私と彼は同じ意見だったのだが、どういうことかというと、一見良く似たイメージでくくられてしまうが、

彼の定義はこうである。

デザインは対相手(顧客やクライアント)や対象顧客層など対象となるものが

必ずあって要望などを汲み取り企画していくことである。

アートは自分の表現をしたいことをあくまでも自己流に創り出していくことである。

そこには対象の顧客などはおらず自分の作品に共感し欲しいと思ってくれた

人に譲ればいいという考え方である。

ジュエリーデザイナーにおいても大きく3つに分けられる。

企業のデザイン室にいて決められた絵や製図ばかり書いているデザイナーは

スケッチャーでしかないし、要望されている事をひたすら考え顧客の要望に近づけ

売れるために企画している人はデザイナーであるだろうし、

コンテストの出品作品や自己ブランドを確立して自分の感性を思い切り発揮してジュエリーを

創りあげている人はアーティストであろう。

これに関して定義はないが、なかなか面白い話だったので入れてみた。

   

2、色と宝石

宝石は色とりどりの美しい色艶で輝いている。

その色の豊富さは自然がつくりだしたとは思えないほど素晴らしいものである。

色石はその色の人気度、又色の濃淡などで稀少価値を生み出している。

果たして宝石に写る色は人にとってどのようなものであろうか。

 無色のダイアモンドの美しさの3要素「ブリアンシー」:白色に光る反射光、

「シンチレーション」:ファセット角に煌く光、

「ファイアー」:7色に輝く光がある。

このファイアー7色に光り輝く。ダイアモンドを様々な角度で見たとき、

きらきらと7色の輝きを見ることができる。

色により人間が宝石を求めていく心を考えた。一言で言うならば日本人は地味である。

日本の服飾においても海外に比べダーク系の色合いが好まれる傾向が強い。

貴金属も同じく、煌びやかな黄色の金色よりも白色のプラチナ色の方が人気が高い。

何故か?ひとつの考え方として「わび・さび」という日本人独特の地味で質素で

人の中で目立つと下品であるという風潮が元々ある。

又日本は豊富な色であふれている。

日本には美しく変化する四季がありそれぞれの季節で独特の色が演出され

四季折々に独特の色の風情があるため色の執着が少なく一般的に地味な傾向があるかもしれない。

春は淡い色の花と鮮やかな新緑。夏は爽快な空と木々、赤い太陽。

秋は枯葉色と美しい夕焼け。冬は白い雪景色にビビットな色の花。

それが日本人の感性を育て色への執着を無くしたのではないか?

砂漠の様な単調で色に乏しい地域で暮らしている人々は宝石の美しい色合いを

見たとき日本人では味わえない感動があるに違いない。

しかも永久的なものはこの世にどれほどあるだろうか?

夕日の赤い太陽、海のマリンブルー、葉の緑、色とりどりの花など自然界で

手に届きがたく又永遠に残らない自然の美しい色を宝石と照らし合わせ、永遠不滅な宝石を求める。

青空は美しい、でも手に届かない。その美しい青空と同じ色の空青色「ターコイス」を身につける。

美しい花も、素晴らしい人生も命は限られている。

仏教思想の中に「輪廻転生」という考え(精神の繰り返し)はあるが、今現在の人生は限りがある。

だからこそ美しい素晴らしいといえるかもしれない。

しかし鉱物は永久に残るのである。

インド哲学では自然は空風火水地、5つのもので作られそこから人は

発生して大宇宙のひとつの生命体の一個人が生かされているとある。

この空風火水地は永久不変の宝石に全て備わっている。

空=青、風=黄、火=赤、水=白、地=黒

トルマリンという和名:電気石があるがこれは電磁波をとばしている。

その電磁波は地球があり太陽が大きく変化しない限り永遠に続くのである。

この世のものを大きく3つに分けて動物界、植物界、鉱物界とすると

鉱物界のみが永遠の命かもしれない。

しかも色あせず命耐えない美しい色の鉱物を神秘的にお守りや神の精霊として大切にした

人々の気持ちと感動は計り知れない。

 又色への執着心は年齢によって変化するとも言われている。

若者と老人では好む色が変わるのである。

人は自分に欠けているものを補ったり、十分なものを抑えたりする力が本能的に生まれる。

人が求めている色でその人の心理状態や肉体状態がわかったり、

ある色の服を着たり身に付けると気分を変えたりすることができる。

20歳前後の若者達は力が溢れるほどみなぎっている。

本能的にその溢れんばかりの力を抑えようとする作用が生まれる。

そのため若者に限って暗い色を着る傾向が高いのである。

もしもビビットな色を好むのならよほど疲れているのか気持ちがダウンしている時だといえよう。

反対に老人は明るい色を好む。しかしほとんどの老人は暗いダーク色を着ている。

本能では求めていないのに一般的常識のようなもので老人はあまり派手に

するべきじゃないという意識が制御しているだけである。

もっと本能のまま明るいピンクなどを着ると生き生きと元気に暮らせると思うのだが・・

服は目立つから恥ずかしいということであればジュエリーや小物などをさりげなく

明るい色で飾るのも良いのではないか・・

   

3、換金性と宝石

宝石は富・権力の象徴であってはいけない。

宝石は金があれば簡単に手に入るし、取り扱いも簡単なので精神的な関わり方が単純化する。

本当はもっと意義のある奥深いものである。

宝石を経済的価値という見方にされすぎている。

 物欲を5つに分けた。

1物理的な利用という意味での強い必要性

2本能的な欲望

3人が持っているから欲しいという比較欲

4交換価値

5それが美しいものだから欲しい

日本ではこうした最高の段階でもつ事を考える人は少ない。

4のレベルは宝石のもつ換金性への不信感のために素直に宝石にとりくめないでいる状態。

だから買うときも売ったらいくらになるかが頭から離れない。

日本人は土地に対して一番執着している国民である。

資産保全の方法のひとつでもあるからだ。

しかし土地も税法などがきつくなると金や宝石へいくんだろう。

一般の人は宝石の価値がわからず宝石商の言い値を信じるしかない。

すると宝石を美しさではなく資産価値で買うようになる。

では美の価値で買うといっても綺麗事になるのではないだろうか?

日本人が海外旅行にいくとあきれるくらい本物志向で片っ端から一流ブランド品を買う。

そういった本物志向が日本人の心の奥にひそんでいるとすると何かの拍子で

美的思考へ向かう可能性も無いとは言えない。

他人志向「他人と同じようにする」が日本人独特のものをつくった。

日本人の精神構造は一言で言えば「ねたみ」の構造。

今までは良い作用をし経済効果はすごいものだった。

隣の家がテレビを買うとうちも同じ物が欲しいというように他人に追い抜け追い越せで

戦後ここまで発展してきたのである。

他人と異なる行動をとると日本の社会はあまりよくない。

島国だから日本をひとつの家族であるという思想が潜在的にある。

組織に身をゆだね、個性の芽をつみとってしまってきた。

装いひとつとっても派手な格好をすると嫌味に見られる。

ここに何か解決しないといけない日本社会の一種独特の精神状態がある。

派手な格好をしていると賢くないと見る。

 物を基本的に大別すると相場性(主観的)建値性(客観的)物品に分けられる。

宝石はお金に換算し判断されるため、全てが建値物品に誤解される。

宝石はどちらかというと相場性物品である。

だから人の意見より自分の判断で購入するお店を決めなければならない。

宝石を財産性と装飾性に分けると比較的建値性要素があるが

財産性のある高級品は相場性物品財産として持つ場合とファッションの場合を分ければいい。

価値観と喜んで使うという使用価値の両方がある。

昔は質素で目立たない事をよしと美しい煌びやかなものを罪悪とする道徳観が

あったができるだけ個性をもち、味を生かし周囲と調和させるようになってきている。

宝石にもファッション性があるといわれるが基本的にはない。

デザインはあるが材料そのものにない。オーソドックスな原材料的な性格の商品。

稀少性があるから価値がある。稀少があって美しいものである。

美しさと稀少性が一緒になり本質的な価値になる。

宝石の天然は不完全であるがそこが魅力なのだ。

昭和33年神奈川県知事 長州一二さんの「一点豪華主義」:貧乏だったので

せめてひとつくらいは良いものを持ちたい。

今では一級品がまんべんなく普及してきた。

宝石を買って将来のインフレに備え、利益を確保できるほど甘くない。

日本人は自分で研究、努力なしに簡単に金でものを手に入れて後で文句をいう傾向がある。

   

宝石と健康

 薬としての宝石

 綺麗なものを見ると神経が調和されて健康になる。

身を飾るということは心豊かにし健康と美しさを求める。

内分泌液の作用で人の性質がきます。

美しいものをみると内分泌液の量のバランスがとれる。

詳しくは薬石ページを参考

宝石と女性

宝石は人間生活において無くてもいいものである。なのに、なぜ女性は宝石を求めるのか

宝石が綺麗だから欲しいというファッション感覚だけではないような気がする。

もっと人の心の奥深くにある精神面の高いものではないだろうか?

12,3世紀、男性が生産力を独占し男が独占したものの中に女性も含まれていた。

女性は男性の所有物となりその物(女性)を飾るというのは男性の甲斐性であった。

稀少価値があり誰んでも簡単に手に入るものなら甲斐性をあらわすものにならない。

宝石を手に入れるため力なり、富なり、汗を流し血を流し、

身体と知恵を使って手に入れようとする。

そういったものを多く持っているということは甲斐性があるということである。

いついかなる社会でも男が生産の中心担い手で自分の尊敬する女性に貴重なものを

捧げるのは自然の事だった。

 一夫多妻制の国で妻が何十人もいる場合がある。

その妻達は宝石、金類を身体のあらゆるところにひっつけている。

男性は社会の地位、権力、役職により安心感を保てるが女性には安心できるものがなかった。

だからこそ身ひとつになっても大丈夫なように、又物をもつことによって女性は生きる上での

安心感を保つようになる。

そしてライバルが沢山いる中で夫からの愛情表現のひとつでもあった。

競い合う妻達の中で愛されているバロメーターが宝石であった。

宝石は女性の最高のステータスシンボルである。

女性はソーシアル・ステータスといったステータスシンボルをより強調したい心理状態が強い。

 人が自分を飾るということは他に対して自分はこういうものだとみせるという以上に

自分自身にみせるという面が強い。自分を飾るという自己の意識を宝石は形として見せてくれる。

ナルシシズム。人間は自尊心を持ち自己愛をもっているから他の者よりよくなろう。

良く見えたいという気持ちが文明をつくりあげている。

 マズロー:心理学者「欲求五段階説」

人間の欲望には5段階ある。

第一欲望:生存の欲望=生きていく為の衣食住

第二欲望:安全の欲望=保険

第三欲望:帰属の欲望=パーティーや人との交際、皆に認めてもらいたい

第四欲望:みせびらかし

第五欲望:自己実現=自分が自分であることを確かめる欲望

宝石は第三、四、五に関連があるのでないだろうか?

第三は彼女が持っているから私も持つ。

第四は彼女が持っていないものを持とう

第五は私はそれが好きだからそれでいい。

18,9世紀の社会は4,5段階にいる人は少ない。

理想の大衆社会というのは大衆が5段階に来る社会ではないだろうか。

 まとめていくと女性の宝石を求める気持ちは

「ステータスシンボル」

「安心感」

「男性からの愛のパロメーター」

「ナルシシズム」

「自己実現」

   

宝石の価値観

さあ、ここで宝石の価値観を見つける又は生み出していきたい。

物は人間が関わらなければそのものに価値はない。どう感じるかどう必要とするかで価値は生じる。

どんなものでも通ずる事だろうが、宝石は心で買うことが大切ではないか。

買う人がただ輝きのある物体として見るだけでなく、

そこに大自然のはぐくまれた生命があるということを宝石を扱う人は教え、買う人は縁で結ばれる。

宝石の生命がその人の手に渡ることによって更に素晴らしい生命が生まれてくる。

「足るを知れ」:物足りている事を知って、次にどうするか?

自分の日常の生活を十分把握した上で物に対し、一歩以上の目標を立てる。

物に生命を入れるために、足るを知れの反省の中から一歩前進すると生活に

対する感が方でもっと心豊かになる。

使い捨て社会の中で生活レベルは上がっているのに物の大切さをわからず心が豊かでない。

心豊かに生きていくには、物への気持ちも大切な要素になってくる。

そして一歩以上に目標をたてるとは、目標金額の少し上を目標にたてることである。

宝石は高い。高いからこそ、手に入れるためにの心意気があり、

手に入れると愛情が生まれ物を大切にし、自分の生命を宿し、心豊かにしてくれるのである。

宝石を買う行為自体が「道」に通ずるのではないか。

厳しさがなければ風流も喜びもない。

宝石を持つときに贅沢品は他のものが全部満足してから手にいれるものと思っている

人が多いがこの宝石が欲しいと思い何かを節約しても金をためてやっと手に入れる。

そのときの充実感、喜びを感じるものとして宝石を考える人は少ない。

つまり宝石道があれば宝石をもつだけでなくそれを得ようとするプロセスも道である。

   

宝石を持つ心構え

人間は何も持たないことが一番気楽である。

しかし人が飾ったり無駄なものにお金をかけるのは何故か。

自分の人間的成長をすることが出来たから相応しい宝石が手に入るのではない。

(お金持ちになったから宝石を買うのではない)

宝石を持つことによって心をプラスにして人間的成長を図り宝石を持つに相応しい

人格形成に努めて、そういった器の大きな人間に自ら成長していくのである。

宝石が人間を選ぶことがある。

考え方のひとつとして、この地球上は今や人間の支配下になってしまった。

人間は所有するという行為をすることになった。

今貴方の周りにある物ひとつひとつ、又人間ひとりひとりも全て地球の自然の産物である。

ひとつの地球という大きな縛りの中で「これは私の これはあなたの」と

人間が決めていっているだけなのだ。

そう考えると宝石の様に地球が何億年もかけて造りあげた自然の産物を

一時的にお預かりしているだけということになる。

次に誰の手に渡っても宇宙船で宇宙まで持っていかない限りこの地球上にあるわけだから。

だからこそ、宝石を持つ資格ある環境に自分を置く様にしないと嫌味がでる。

しかし修行のために自分を悪い環境においてそれに負けない事。

世の中には常に陰陽があるから両方しないとバランスがとれない。

宝石は神の結晶である。資格のある人がもてばお守りになり運がついてくる。

この辺の話は第一章でお話したが、そういった長く由緒ある西洋の宝石文化。

空白の日本の宝石文化。西洋文化が東へ流れ流れついて日本は最終地である。

ヨーロッパナイズされたものを再び東洋的に見直す時期がきているのではないか。

西洋では財産性があり戦のとき持ち逃げるに良いとあるが、これは「道」ではなく経済論である。

宝石の入り口をうんと広くして特異な人間(大富豪など)しか入れないでいてはいけない。

宝石の場合沢山見たり、持ったりという条件が無い。

宝石の持つ本当の美しさはとらえられないが、経済力が必要になる。

すると俗っぽくなるのでどう理論的に納得させるか。

必ずしも沢山持たねばという筋合いのものでないし、只毎日じっと数を見ることでもない。

日本で宝石道を発展させるためには西洋的な良さに東洋的なオグラートをかけていく必要がある。

狩猟民族にとって死と隣り合わせの生活をしている緊迫感が

自分の永遠の生命を信じ、宝石に生命を刻んでいく。宝石に対し、愛情を注いでいくのである。

日本人は宝石を触って暖かさを与えていくんでなく、与えられようとする考え方の甘さがある。

人に対しても西洋人は自分からアピールして私は安全な人だよと表現していく。

日本人は相手をうかがうことから始まる。

日本人は自然の厳しさを知らないから常に自らを自然に融合させ

自然を和解させて人間の力をかいかぶるところがある。

だから自然に調和できない。日本人の「自然に帰れ」というのは京都の庭的な

自然で人の影が見えているものを指す。

荒々しい自然の中で育った人は怖くてそんなことは言えないのである。

日本人は人間の作ったものだけに価値があり、人間は何でも作れるという考えがある。

だからこそ「・・・作」というのに弱い。

宝石との共有は自然との共有そのものである。

自然の大地が生み出した大いなる生命、宝石を自ら愛し、共有していくという気持ちが必要でないか。

 武野しょうかくは「正直にして慎み深くおごらぶさまをわびという」と言っている。

質素な生活をわびという。

質素な生活と聞くととても侘しい生活のようだが、精神的には非常に豪華で贅沢なものである。

座禅は最高の贅沢と言われているように。

宝石を美と精神の対象とみればこのわびの精神に通ずる。

茶道では「和敬清寂」が根本的な価値観である。

和敬とは和やかな人間関係をもつと同時に相手のいいところを見つけてそれを尊敬するということ。

これは直接人に会わなくても仏教や茶道では

身口意(釈迦の人間の三つの業 身は行動、口は言葉、意は考え方 

それに対し責任を持たないといけない)といい、茶道ではその人の書いたものを

読むとか創ったものを見て親近感を覚えたり尊敬したりする。

道を開いた人や先人に対する情景と敬意の念があり、それも和敬である。

つまり無形なものに対する価値観でそれがわからないとわび・さびを理解できない。

利休が生きていたら宝石の美を理解しもっと生活の中に調和した新しい楽しみ方を確立したと思う。

お茶入れがありそれを入れるための袋や箱をつくると何かお茶入れを高く売る為に

わざわざつくったと受け止められやすいがお茶人はそうじゃない。

お茶いれを裸のままほっておくのは生まれてきた子供を服も着せずほっておくのと同じ気持ち。

愛情を感じるから大切にして300,400年も時代を経て現在に伝わり無限の価値をうみだしている。

お茶は人をもてなすことの大切さを説いている。

能の世阿弥と茶道の千利休は匹敵する。

千利休は士農工商の階級制度を超越した世界をつくった。茶室は主人と客の関係のみ。

身分の違う人も入ることが可能だった。

ひとつの茶碗を何人もの人が口をつけてのむことは茶の作法ルールに

従えば現実社会の制約を脱し心からうけとける場であった。

   

宝石の十徳

宝石も仏教理論を取り入れた宝石の取り扱い方や礼儀作法的なものを考えてよい。

「人にも施し」とはお客様に心してお茶を差し上げる事。

これは同じ時代に生きる人たちを思いやる事。

茶室は粗壁に対座し自身も土に戻るんだというように人間としての本質的な

大切なものを見つめ十徳の最後「臨終不乱」死に臨んで心乱れることなく静かに死んでいける。

これが茶室がひとつの修行の場で土に帰ることを茶道を通し学んだ結果の安心立命ともいえる。

宝石も生きている時、持っているときの安心立命が得られるようになれば

一つの道として確立するのでは?

人間の力を超えた神の力を我が身にうつしたい。一家を平和にして欲しい。

そういった祈りから始まったのである。お守りから装飾へ。祈りから芸道に発展。

「売ったらいくらになるか」などステータスシンボルの宝石に対する執着を

打破して純粋な美を追求したい。価値あるものほど持つ人の心が大切なのである。

 奈良、石上神社の府留部の祝詞の中に十種神宝(とくさかんだから)というのがある。

生玉(いくたま):生かす玉

死反玉(まがるかえるのたま):4つの玉、復活の玉

足玉(たるたま):満足させる玉

道反玉(みちかえしのたま):守ってくれる玉

それを唱えることで死んだ人は復活し病は癒せるといわれている。

天皇の象徴も玉「八尺瓊の勾玉」がある。

国という字も玉を皆で守っている。

生活様式の多様性、価値観の多様性などあまりにも多様化しすぎて

純粋なものを掴みとるという能力に欠けてきている。

 宝石の一番の根本は神と人間を結ぶ媒体としての道具である。

裏付ける文献や資料として。日本の三種の神器がある。

三種の神器とは鏡、剣、勾玉である。

鏡は放送設備。

勾玉は人間側の発信、受信。勾玉に祈りをこめると祈りのバイブレーションが

宝石で増幅され鏡を通じて神に届く。一方神の意思が鏡を通じて宝石で増幅され人間に届く。

電波の性質は宝石の種類、大きさ、色、持つ人により変わる。

勾玉の形は発信によく、二つ合わせると完全な円になる。

二つそれぞれの力があるのが勾玉で形は遠心力が働く。

島根の弓道温求の神社の勾玉の形をした宝石を持っていると祈りが渦巻いて

遠心力を出してとんでいき神に聞こえるほど増幅すると言われている。

 香道の中に香木は聞くという。

香木は見ること、匂いをかぐこと、味におきかえ味わうこと、触ることができる。

香木から直接できないのは聴覚のみ。

つまり聞くことによって五感全部を集中しなければ香というのがわからない。

 形と心、両方がないと「道」にはならない。

自分が本当に人間的に素晴らしい境地に達した人には自然に宝石の方から来る。

持つ資格を得た事になる。

無心になればもとめていくんじゃなくて自然に来るもの。

無心とは全てを捨てて何もいらないということではない。

宝石の良さを率直に認め無理なく身に付ける素直な心になりこだわらないこと。

「道」とはまず自ら求めて行い、そして周りから自然に吸いつけられるようについてくる。

共に歩むものがいないと「道」ではなくなる。

 素晴らしき日本の文化、精神の高さ、深さを改めて感じ、

美しい宝石との文化文明が発展していくことを真に願い、確立していきたい。

   

主要参考文献:宝石道 渡辺幸次郎著
尊敬する渡辺幸次郎先生、畠健一先生に心より感謝いたします。    

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